「 無 題 」


縁側に胡坐をかいて杯を傾ける。
庭の片隅で満開となっている梅の木へ三日月の淡い光が降り注いでいた。
湯上りのほてった身体に夜風が気持ち良い。
「家主より先に始める奴があるか。」
徳利とつまみを掲げながら化野が近づくと、隣に座り込み一人で飲み始
める。どうやら、今持ってきた酒を飲ませる気は全く無いらしい。
夕食の時分を思い出す。

昨年の秋、講に紛れ込んだ杜氏が作った。 ・・・いや、そうと知らずに作ってしまった偽光酒の話をしていると、化野の表情が曇り始めた。その不機嫌そうな、不愉快そうな顔に何故かと聞けば、その酒を手に入れて今此処にあるという。
「話には聞いていても見たことは無いだろうって、自慢したかったんだが。 ・・はぁ。話の出所はお前かよ。」
湯上りの一杯で、手に入れた苦労話と一緒に披露する算段だったようだ。
一瞬、表にまで話が広まっているのかと心配になったが、否定される。
「好事家全てが蟲に興味があるとは思えんし、余程の物好きじゃなきゃあな。そうそう手は出さんだろうよ。」
そう言って、その余程の物好きは食後のお茶を入れてくれたのだ。

「いくら文献を開いたって、いくら話を聞いたって、頭ん中で想像するしかない。 ・・・それが悔しくてな。無理して手に入れた。」
相変わらず徳利をこちらに向けるそぶりも無い。
飲むためではなく酔うための酒か。しょうがない、偽光酒は諦めよう。
「珍品中の珍品だからなそれは。化野としては念願のもんが手に入って
至福の時ってわけか。 で? どうだ? なんか見えてきたか?」
ゆっくりとつまみに手を伸ばしつつ聞いていると、ふいに肩を掴まれ耳元で囁かれた。
「酒は単に俺のわがままだ。お前と一緒に、お前の見ている世界を体感したくってな。それに、念願のものなら、もうとっくに手に入れてる。」
そのまま顎をとられて深く口付けてくる。
「・んっ・・」

さっきまでの、ひょうひょうとした空気は鳴りを潜め、欲の混ざった、だが真摯な瞳が見下ろしていた。
肩を掴まれた指に力がこもる。
「・・ギンコ・・・・  がはっ!」
「蟲を見たいんじゃなかったのか? 早いとこ酔っぱらえ。」
握り込んだこぶしを腹に一発くらわせてから、取り落としたつまみをくわえる。 ・・まったく。油断すると直ぐこれだ。
「おっ、まえっ、なにも、殴らんでもっ・・・ って・・ 茹蛸だ。」
苦し気に腹を押さえつつ見上げた途端。
吹き出されてしまった。
言われなくても解っている。もう一発殴ってやろうかと思ったが、真っ赤な顔のまま視線を逸らす事しかできない。こんな時、子供の様な反応しかとれない自分が不甲斐無かった。
何時もなら少しにやけ気味の笑顔で覗き込まれるか、抱きしめられるかするところなのだが、さすがに今回はくつくつと笑うだけだ。

白状してしまえば。例の杜氏の話を聞いた時、真っ先に浮かんだのは化野だった。この酒を持って行けば化野はきっと喜ぶだろう。
・・・違うな。俺が嬉しいんだ。
奇しくもさっきこいつが言ったように。気付いた時にはこの目で見、この耳で聞いてきた世界。俺にとっては日常で、だが、こいつにとっては非日常の世界。この隙間は、けして埋まらないと思っていた。
しかし、この酒があれば。
これは、俺の自分勝手な欲だ。あの時、なんとか自分自身を押さえ込んで「蟲師」でいられた事は間違いなかったと、今も思っている。あの酒はけして表に出てはならないものだから。
「うおっ! ギンコ!! 見えてきたぞっ!」
化野が突然キョロキョロと辺りを見渡し始めた。
こいつの欲と、欲のままに動いてくれたことに、今だけは感謝しよう。
蟲で溢れるこの世界に、少しの間だけでも共に立つ事が出来たのだから。
「・・おい、落ち着けよ。そんなに慌てるな。」
片っ端に名前を聞いてくるが、それには答えず杯を酒で満たした。
限られているとはいえ、時間はまだあるのだから。



                                    終










 うちのようなサイトに、いつも感想を下さる、心優しき案山子亭様からの頂き物でございますv な、な、なんとっ、一周年のお祝いに、と書いてくださったという!

 感謝、感激、そして感動〜。

 なんといっても、このラストシーンの化野先生のはしゃぎようが可愛くって可愛くって、頂いて読んだ途端に「可愛い〜♪」と、惑い星は叫んでしまいましたとですよっ。きゃーっ。

 この可愛さが先生ですよねっ。そしてギンコさんに告白っぽいことを、平気で言っちゃう素直さと遠慮のなさが先生ですよっ。そしてうちの女々しいギンコとは違って、先生を殴っちゃうギンコさんがまたv

 この「らしさ」満開の二人が、うちのサイトに遊びに来てくれたみたいで、格別の幸せでありますっ。

 案山子亭様、本当にありがとうございますっ。感謝ですーっっ。


07/03/10