文 : 惑い星




『 七篠と銀助 』









 あるところに、七篠と言う心根の大変良い医家がおりました。この医家は日々を常に慎ましく暮らし、仕事には熱心で、周囲の皆にも優しく、誰からも好かれて平和に過ごしておりました。

 このような良い男のことですから、それはもう気立てのいい、立派な妻か恋人がいそうなものですが、そこがまたこの世のうまくゆかぬところ。七篠が心を寄せているのは、なかなか会いに来てもくれない、つれない男でございました。

 この酷い男、名を銀助と言う旅の男です。彼は七篠の家を訪れるたび、したいことは散々好きなようにするばかりで、いっかな化野を気遣う素振りはないのです。そうして用が済めば、さっさと立ち去ってしまうのでした。

 惚れた弱味と文句も言わず、七篠はいつも彼に焦がれてばかり。そうしてあまりに恋しさが募ってしまい、彼はとうとう、ある品に想いを託し、気づかれぬよう銀助に持たせたのです。

 これは彼が長年愛用した、大切な大切な品。言わばおのれの分身のようなもの。気付けばあの人でなしの銀助とて、それを持たせた七篠の切なる想いに気づくことでしょう。

 願いを込め、想いをのせて、七篠はそれを銀助のポケットへ入れ、気付いてくれるのを待っていたのです。

どうかこの想い受け止めてくれ
ずっと傍にいてくれなどとは言わぬ
ただ、去るときくらいは
もうちょっとくらい優しく
愛の言葉のひとつやふたつ
囁いてくれたっていいだろう?!

 しかし、なんという冷たい仕打ちだろうか。ギンコは俺が想いを託した品に、何ヵ月も気付かぬまま、平気な顔をしていつも通りに現れたのです!

 その時の化野の悲しみと、落胆の大きさと言ったら!! あぁ、なんで俺はギンコなんかに想いを寄せて…。



「あー…もう…わかった。けど気付かなかったんだから、しようがないだろ…」
「なんのことだ、ギンコ。俺は今、とある物語を朗読してやっているだけだぞ。いいから黙って聞け」



 そして七篠はとうとう、銀助に愛想をつかし、いつもなら用意していたご馳走も、暖かな布団も、沸かしてやっていた湯も、すっかりやる気をなくして、それからというもの、二度と…



 ギンコは化野に背中を向けて、ふてたように横になっていたのだが、とうとうその腹が、ぐう、と切ない響きを立てた。

「……悪かった」
「あ? なに? 聞こえなかった、なんと言った?」
「悪かったから、飯、食わしてくれ…」

 はぁーと深いため息をつきつつ、ギンコはそう言った。

 だってしようがないだろう。

 あのあと、里を出た途端に、ぬかるみにはまった荷車に行き合って、助け出す手伝いをしたのだ。上着は汚れたし暑くなって脱いでしまったのだが、丸めて木箱の奥に突っ込んだとき、どうした具合でか、化野の片眼鏡は箱のすみに転げ、ちょっとやそっとじゃ出てこないとこへ入り込んでしまった。

 かくして何も気付かず、何も知らないギンコは、化野からの何度かの文にも、変わったことは何もない、と答え続けていたわけで…。いつもと同じつもりで会いに来てみれば、すっかりつむじを曲げた化野に、妙な物語を淡々と語られることになり、やっと、ことと次第を知って、じっと空腹に耐えていたのだった。

「だからこれは、ただの物語だと言っているだろう。お前がいったい、俺に何を謝っているんだかしらんが?」
「…さっきから話の途中に、俺の名が出てたけどな…。とにかく俺も銀助も反省するから!」
「うむ…。他に言うことは?」
「あー。……好きだ…」
「ギンコ…」
「お前だけだ。今までだってこんなに、好いたやつはいない。だから飯」

 振り向いたギンコの、あまりに情けない顔を見て、化野は笑った。しかも、好きだなんだと口にするのが、本気で死ぬほど照れるらしい。顔どころか耳まで赤い。

「飯食いたさだと思うと業腹だが、まあ、許してやる。…大事にしてくれよ、俺のその片眼鏡」
「わかってるよ」

 ギンコは手にしていた化野の古い片眼鏡を、じっと見下ろして、その表面を優しく指で撫でた。

「知らぬ間に、落としてなくしたりしてなくてよかった。今度からこういう時は、こっそり忍ばせたりしないで、言いたいこと言いながら手渡してくれよ」
「ああ、わかった。お前が人の思いに鈍いのも、腹立たしいが理解した。…それでなギンコ、すまないが」
「あ?」
「飯の支度は、これっぽっちもしてないんだ。お前がくると知ってから、これを書くのにずっと忙しくて、俺も朝から食ってないしな」

 化野はさっきから読み上げていた書き付けを、ギンコの目の前にひらひらと振った。

「うぅー。そりゃねぇよ…」

 ギンコの腹と化野の腹が、同時に仲良く音を鳴らしたのだった。












12/04/28