文 : 惑い星


『欠け傷の理由』





 寒い。腹が減った。
 寒さと空腹に責められて、眠るのさえ出来やしねぇ。


 人の絶えて久しい里の跡、ここはその里の高台にある一軒家だ。ぽつんと立ってるこの家を、遠くの山の中腹から眺めて、真っ直ぐにここへと向かったギンコだったが、まさか廃村とは思わなかった。
 なんか上手いこと言って、喰いもんや一夜の宿を恵んで貰う気でいたというのに、その当ても見事に外れたことになる。

 お前のせいだぞ、畜生め。

 遠くから見たとき、よく似た家だとギンコは思ったのだ。斜面を登り切った、山への入り口の傍に建つこの家。屋根の形やら、こちらへ向いた縁側の雰囲気が、やけに化野の住む家に似て見えて、そう思ったらもう足が向いていた。

 町の方へ下りる道もあったってぇのに、ついつい惹かれてこんなとこまでやってきたら、そこは人の居ない廃村。化野の家に似たこの家屋も、あちこち崩れ掛けて、隙間風とやら、戸のガタつく音とやら…。
 勿論、誰かが住んで居るわけもなし、燃やす薪や食い物のあるでなし。

「あぁ、寒ぃ…」

 吹きっ曝しの外よりゃマシ、と、ギンコは靴のまま屋内に入り込んでいた。何かないかと散々漁ったのち、とうとう諦め切って、火の気の無い囲炉裏の傍で体を丸める。湿気た畳の冷たさが深々と、肌に突き通るように辛くて、また聞くものも無い悪態を吐く。

「畜生めが、冷てぇんだよ…この…」

 いつの間にか、ギンコはポケットの中の硝子を探っていた。そう…、小さくて、丸い形の透き通った硝子だ。化野が、ギンコに持たせた古道具。

 つめてぇ…。

 かすれた声でギンコはもう一度言って、それを取り出し、息をあて、指先でごしごしと擦ってみた。ひいやりと冷たかった片眼鏡が、それでも少しずつ温まってきて、今度はそこから自分がぬくもりを返されるように思う。
 
 改めて、そっと指の腹でなぞると、うっすらと感じる小さな傷の幾つか。きっと長年、愛用していたのだろう。この傷の一つ一つに、ギンコの知らない化野の日常が染みている。
 
 そりゃぁな、知らんことだらけに決まってるさ。年に数回しか会いに行かず、やっと訪ねてもほんの二、三日滞在するだけの自分だ。知り合ってから、それほど長い年月が経っているわけでもない。

「…ん…?」

 ふと指先が、傷ではなくて小さく欠いたような部分に触れて、ギンコはわざわざ身を起こした。壁の隙間から月明かりが差している場所へかざし、よくよく見ると、確かにほんの少し欠けている。目元に当たる場所ではなくて外側だし、本当に小さな欠けだから、使うに不自由ではなかっただろうが。
 よく、割れなかったもんだ…、と、思わず呟いてから、ギンコはやっと思い出したのだ。

 こりゃあ、俺がやったんじゃなかったか…?

 もう随分前になるが、あれは知り合って一年になる前くらいだったか。ほら、あの日、あの時。そうだ、唐突に心を突き動かされて、傍らの体へ手を伸ばし…。

 思い出せば、嫌になるほど、それは鮮明だった。





 がたん…ッ

「ギ…っ。な…何、するんだ…っ」

 組み敷いて。

「お、い…っ、一体、何を…。んぅ…ッ」

 唇を塞いで黙らせて。

 必死に足掻く体は好きにさせたまま、脚の間を容赦なく握り込んだ。刹那、凍り付いたように身を強張らせ、目を見開き、化野は畳に爪を立てた。がり、と、強く床を掻いて、四肢で這って逃げようとするのを、追いかけてうなじに歯を立てる。

 腰の帯のすぐ下から、着物の袷へ手を滑り込ませ、下帯の上からそこを揉んでやると、化野は腰の位置だけガクリと床へ下げた。そして床と自分の体の間へ、ギンコの手を挟んだままで、妙に淫らに背中を撓らせて身悶えて…。

「…やっぱりな、知ってやがる」
「何、を…。ぁ…ッ、あ…」

 指の腹で、一枚布の向こうの皮膚をなぞる。跳ね上がるように、その場所の体温が上がって、火傷しそうな熱さと小さな痙攣を感じた。そのまま擦ってやれば、化野の腰はゆるゆると、焦れたように…前後に。 
 ほらな、知らなくてどうしてこの腰の振り方だ? 男となんか、したことがないように見えていたのに。

 何故だかギンコは苛立った。苛立ちながら執拗に弄った。いつもは穏やかな化野の声が、彼らしさを残したまま、湿り気を帯びて乱れる。あぁ、あぁ…と切なげに。



 その日、ギンコは化野の家を夜半に訪ねたのだ。そして、珍しく一人で酒に酔っていた化野の、そのほの赤く染まった肌を、彼は見た。らしくなく、ややだらしなく座って、知らぬ間に少し乱れていた着物の襟を、変に気にして何度も、何度もきちりと直す化野の仕草が、何故だかやけに気に障って。
 
 なんだよ、それ、誘うみてぇな。まさか、いや、もしかしたら、とそう思い…。確かめたくて、衝動的に組み敷いていた。そして強引にそこを弄って、すぐに分かった。

 こいつは穢れの無い、まっさらの男なんかじゃない。女とどころか、男とだってしたことのあるヤツだったのだ。なんだ、だったら遠慮などいらなかった。欲しいのなら、手を出したってよかったのか。

「しようぜ、化野。別に初めてじゃねぇんなら、俺とだって構わねぇんだろう」
「……………」
「……しようぜ、なぁ」
「………い、嫌だ」

 随分と長いこと、ギンコの目を見たまま黙っていた癖、化野は最後には拒絶したのだ。他の男はよくて、俺とは駄目だというのか。苛立って、後ろから首を抱いて無理に顔を向けさせ、もう一度口を吸ってやろうとし…。

「や、め…ッ、嫌だっ!」

 凄い勢いで振り払われ、その拍子に化野の片眼鏡が弾き飛ばされた。傍らの酒肴の膳の器のどれかにぶつかって、がちゃん、と派手な音がする。

 あ、割れた? 器か? それとも片眼鏡が? 

「嫌だ。こんなんじゃ、嫌だ…。ギンコ、お前とは…。お前と、だけは…」

 仰のいた体の、乱された着物から零れた白い肌。たった一瞬で付けた口付けの印も生々しい。その素肌のあちこちを、狼狽したままで隠すように着物を掻き合わせ…。化野の震える唇が、ギンコ…と、名を呼ぶのが見えた。

「…悪ぃ」

 うわ言のように言った化野から身を離し、ギンコは膳の上やその傍に、跳ね飛ばされた片眼鏡を探した。畳の上に転げていたそれを拾い、黙って化野に差し出すと、彼は震える手でそれを受け取り、指で表面をするりと撫でた。

「…欠けた…」
「あー。じゃあそれ、もう、使えねぇのか…?」
「いや、ほんの少し欠けただけだ。顔に当たる方じゃ…ない、から、平気だ…たぶん…」

 よかった、などと、言える立場じゃぁ、ねぇよなぁ。

 ギンコは心でそう思い、もっと、さらに化野から身を遠ざけた。遠ざけついでに木箱の傍へ寄り、それへ片手を伸ばすと、見ていた化野が、焦ったように目を見開く。

「き、来たばかりだろう」
「まぁ、そうだけどな。でも今日のところは…」

 また寄るよ、とでも、当てにならぬ約束一つして、すぐにも行ってしまいそうなギンコに、化野は言ったのだ。必死の目をして、言ったのだ。

「お…俺だってっ」
「あ?」
「俺だって、いろいろあったんだ…っ。お前にも色々あっただろうし、俺の今までなんか、お前と比べたら平坦だろうが、それでもっ、いろいろあったんだ。それだけのことなのに、お前は…そんな俺は、嫌かっ?」

「あだし…」

「男としたことがあるからって、好きでやったとは限らないじゃないか。無理強いとか止むを得ずとか、そういうことだってあるのに、そうやって何度かしたことがあるからって、そこらの尻軽みたいに? 誰とでもする男として、お前とも、だなんて、俺は嫌だ。どうしても、嫌なんだ…!」

 驚く、というより、むしろ唖然として、ギンコは化野の顔を見ていた。

 しまったな、こりゃぁ、告白…だろうよ。

 そんなことを淡々と思い、ここは逃げるべきだろうとも思ったのだ。こんな重てぇの、かなわねぇ…。なのに、片眼鏡をしていない潤んだ目で、真っ直ぐに見つめられて、今すぐ喰っちまいたくて、どうしようもなくなった。
 そもそも化野のことを、珍しいくらいにまっさらで、穢れのないような男だと思っていて、それでずっと手を出しあぐねていたのだ。つまり「据え膳」にも程がある、というわけで。

「あー。じゃあ、酒」
「……ギンコ…?」
「少なくとも、一晩、泊まってく。さっきのは忘れるから、もうちょっと酔わしてくれよ。…酒」
「…うん」

 化野は、まるで餓鬼のような笑い顔を見せた。さっきの、一瞬の淫らはどこへやら、だった。





 思えば、つかまったのは、あの時だったのかと思う。始終待たせてばかりで、待ち続けている化野が、彼を焦がれているような様子で居るが、案外、ギンコも化野に弱い。抱けばあの体は結構淫らで、それでいて心は変に清くて、恥らう様と、乱れる所作との、激しい落差に眩暈のする程。

 だから。あぁ、だから、こうして生々しく思い出しちまうと、欲しくて欲しくて、どうしようもなくなっちまうんだ。

 さっきまで、空腹と寒さで辛かったものを、脳裏に浮かぶあいつの姿で、頭の中はいっぱいだ。腹は空いてても喰いたいのは、肉や魚じゃなくて…化野の体が今すぐ喰いたい。

 お前のせいだぞ。

 欠けた部分を意識しながら、ギンコは片眼鏡を指先で撫でている。化野の肌に触れられない分、餓え死にしそうになりながら、大事に大事に撫でている。

 誰もいない淋しい廃村。聞こえているのは、波音に似た風の音。愛しい相手が待つ、あの家に似たあばら屋で、ギンコは届きようも無い悪態をついていた。


 あぁ、もう…何もかも、
 お前のせいだよ、畜生めが…っ。











リレー『おもいびと』の中で、片眼鏡の傷を、ギンコは「自分の知らぬ化野」の象徴と思ってしまったようなので、その傷の一番大きな一つ、欠けた跡をギンコ所以のものとしてみたv どうだギンコ、満足かっ(惑い星談)



12/03/17