文 ; 惑い星






現代版 おもいびと 「想われ人」



「それじゃぁ」

 あっさりと背を向けてギンコは部屋を出て行った。

「気をつけてな」

 と、化野は窓に両肘をついて、空に夕の色を眺めながらそれだけを言う。拗ねたように、ギンコの方を向かないのはいつものことだ。玄関から外へ出て遠ざかり、そこで一度でも軽く振り向けば化野の姿が見えるのに、ギンコが振り向かないのも、あまりにもいつものことで、想像通り。

 ギンコは坂を下りていく。冷たい背中をして下りていく。

 その姿が見えなくなって暫く後、化野の家の電話が鳴った。ナンバーディスプレイを見て、彼は小さく苦笑する。

「…はい?」
『どういうつもりだよ、これ、お前の』
「何が?」

 何のことだと言うように、飄々と答えた化野だが、さっき液晶に表示された番号が、自分のケータイの電話番号だったのは勿論気付いている。くすくすと彼は笑って、でも受話器から聞こえてくるギンコの声が、歩きながららしく揺れているのも分かってる。

 ギンコは、ここから遠ざかる方向へと歩いている。鞄の中に忍ばせてあった化野のケータイを、ここまで返しに戻る気はないのだ。

 そりゃそうだろう。ギンコはバスの時間を見て行ったのだし、そのバスに遅れれば、列車にも遅れる、空港で飛行機にも置いていかれ、大事な仕事に穴が開く。
 今では数えるほどしかいない蟲師の一人なのだから、遠くからの依頼も多い。折角の逢瀬も尻切れ蜻蛉に終わることもあって、それにいつも切ない思いさせられている化野の、これはせめてもの報復だ。

「俺のこの身の代わりに、持ってってもらおうと思ってな」
『お前のケータイ俺が持ってたら、お前、俺に電話もメールも出来ないんだぞ?』

 家の電話があるし、パソコンからメールも出来るが、それじゃ時間が限られる。それじゃ急に話をしたくなった時に淋しい。だからケータイに依存してる俺を、ギンコはよく知ってる。お前に依存してることも知ってる。いつでも繋がれる道具がないと、駄目なんだって。

 分かってたけど、やっぱり諸刃の剣だった。しかも、ギンコよりも俺が余計に痛手を喰う。

『いいのか? それで』
「…あぁ、そういやそうだな。返しに来てくれるか」
『………』

 沈黙が流れる。悪戯が過ぎたか? 怒ったか? でもたまに困らせるくらいなんだ。たまに駄々を捏ねるくらいなんだ。これはいつも聞き訳が良すぎる反動なんだから、甘んじて受けてくれ。戻る気が無いのなんか分かってるし、それだってお前を好きだよ。
 仕事に誇りを持ってるお前が好きだよ。でもお前の仕事は嫌いだ。いつでも俺からお前を、簡単にもぎとっていくから。

『ふぅ……』
「ギンコ、悪かっ…」
『切るぞ』

 ぷつん、ツーーーーーーーー。

 怒らせたらしい、多分、想像していた以上に。暫く来てくれないかもしれない。ただでも既に淋しいのに、次にいつ会えるんだろう。ケータイは渡してしまった。
 大丈夫、新しいのを買えばいいだけだ。だけど、出てくれるだろうか、怒りを解いてくれるだろうか。こんな我侭な恋人、もう嫌だと…思われたら…?

「ギンコ…」

 化野は家のドアへと走った。今から追いかけて詫びようとしたのだ。家の電話から掛ければ繋がるのはわかってる。でも目を見て謝りたい。許してやると直に言われたい。ついでに、ちょっとだけでも、抱き締めてくれたりなぞしないだろうか。

 そんな甘えた幻想が付け足される。まだまだ反省が足りてない。だからやっぱり直接叱られなきゃ駄目なんだ。

 暫く走ったその向こうの角から、ギンコがこちらに向けて歩いて来るのが見えた。白い髪が夕焼けの色に染められて、何だか不思議で、胸が詰まった。

「何で…? バスの時間…、列車、飛行機も…。依頼主との約束は?」
「そんなギリギリで動いてねぇよ。夜行バスかなんかでいきゃあ、約束の時間にはちゃんと間に合うと思ってな。お前んちのパソコンで調べさせてくれ。目的地への別の行き方。ほれ、ケータイ」

 そう言って渡されたのは、化野のケータイじゃなく、ギンコのだった。呆けた顔してそれでも受け取ったら、ギンコはそっぽを向いて言ったのだ。化野の言葉をなぞらえて。

「それ、お前専用だから、別に渡しても仕事にゃ困らねぇよ。俺だと思って、持っててもらおうと思ってな」

 ギンコの腕が、化野の背中を抱いた。こんな公共の道路で、いいんだろうかと思った。望んでいたことなのに、現実になると意外に焦る。鼓動がうるさい。俺のと、ギンコのと。

「それから、お前な。自分のケータイくれるのいいけど、充電くらいしてから寄越せ。履歴見てたらすぐ切れたぞ、電池。…殆ど俺ばっかなのな、悪い気はしねぇ」

 だから戻る気になった。だなんて、ギンコは変な理屈を呟いた。

「今度から、なんか言いたいことがあるんなら言えよ、こんな妙なことする前に」
「言ったら…どうかなるのか?」
「さぁなぁ、それは言われてみねぇと分からねぇ。けど、朝発つ予定を、夜にする、くらいはするかも、だし?」

 ぷ、と、ついつい吹き出した。

 ギンコは冷たくて、それでも優しい俺の恋人だ。そして俺は我が侭で淋しがりの、案外厄介なお前の恋人。それでも愛想つかされない程度には、どうやら愛されているお前の恋人。












12/02/18