文 ; 惑い星


『魚と座布団、そして片眼鏡』





 俺は、ギンコと言う男のことを、今も本気で好いている。一年ほども前になるが、あいつは旅の暮らしで体を壊し、七日間の間、この家に寝泊まりしていったのだ。

 俺と変わらぬ年だろうに、真っ白な髪をして、しかも片方きりの目が翡翠の色で。俺は一目でそいつに惹かれ、一日でも長く居てくれるよう、随分親切にしたものだった。なのに、あいつは俺がほんの少し出掛けている間に、なんの言葉も前置きもなく、唐突に姿を消したんだ。そうして居なくなられてから、あいつに惚れていたのだと、俺はやっと気付いた。

 それから暫し、俺は腑抜けのようになっていたっけ。

 何度もあいつを夢に見たし、出入りの商人や旅人に、見かけなかったかと散々聞いた。里を出て探そうと思ったこともあったが、擦れ違いになるのが怖くて、毎日毎日、この家でただあいつを待った。

 み月が経ち、半年が過ぎ、気付けばあれからもう一年か。もしかしたらあいつの存在は、俺のただの空想の産物で、この世のどこにもいやしないのかなどと、最近はよく思う。繰り返し繰り返し夢に見ているうち、現実と夢とがごっちゃに混ざり、居もしない男に惚れたのかと。

「なぁ…? どう思うよ? お前」

 膝の上の柔らかな生き物を、俺は優しく優しく撫でた。真っ白い毛並みで、尻尾の長い綺麗な猫だ。餌と寝床を、俺が用意してやっていて、み月前からここにいる。

「なぁ、あいつはいないと思うか? 珍しもの好きの、俺の頭の中だけに住む、想像上の存在なのかな? ならもう二度と会えないのか…?」

 教えてくれ。教えてくれよ。あいつの有り様を真似ているようなお前なら、きっと答えも知ってるだろう? あいつみたいにふらりと現れ、あいつの代わりのように、ここにこうしていてくれる、お前なら。

にゃあ。

 猫は愛らしい声で一声鳴くと、俺の膝の上でころりと寝転び、白い前足の片方を、顔に向けて伸ばしてくる。甘えの仕草が可愛くて、そっと顔を寄せると、その前足が俺の片眼鏡に触れた。

「またこれで遊びたいのか? 困ったやつだなぁ」

 これは大事なものなんだぞ、と、そう言いながらも、俺はそれを目元から外し、手のひらにのせて差し出した。何故か最初から、俺の片眼鏡がこの猫の気に入りだった。猫は小さくて柔らかな前足の先で、そっと片眼鏡をつついたり、鼻を寄せて匂いをかいだりする。いつまでも飽くことなくそうしているので、俺は猫を膝から下ろして、いつもこの縁側に置いてある、猫用の小さな座布団に座らせた。

「壊しては駄目だぞ? わかったな?」

 人間相手のように念を押して、片眼鏡も猫の懐あたりに置いてやる。嬉しげに擦り寄るのを微笑ましく見てから、昼の支度をしにそこを離れた。

 眼鏡無しでは多少疲れるのを、無理して一、二時間もそのまま過ごしていたろうか。縁側の方から、いかにも不吉な音がして、俺は慌てて文机の前から立ち上がった。聞こえたのは、何か固いものにでも、ガラスが当たる音だった。

「…あぁ…っ」

 やられた。庭石と庭石の間の隙間に、俺の片眼鏡が挟まるように落ちていた。そうしてそれへ更にじゃれるように、猫がそこで戯れていて。

「こらッ!」

 声を荒立てて叱ると、猫は随分驚いて、目を見開いて俺を見た。縁側で下駄を突っ掛け、邪険にそこを退かせて片眼鏡を拾う。割れたは割れたでも、幸い端が欠けただけで済んでいた。新しいのを作らねばならないだろうが、出来るまで使うくらいなら平気そうだ。

「はぁ、やれやれ。猫に割れ物を預けた俺が、悪かったか…」

 割られたことを悔やみつつ、猫の姿を探したが、庭のどこにも、家のどこにも姿がなかった。すねたのか? 叱りつけたから、怖がらせたか? そういえば、かなり大きな声を出した気がする。驚かせてしまったのだろう。悪いことをした。

 いきなりあんなふうに怒鳴られては、怯えても無理はあるまい。腹が減るまで出てこないかもしれんな。今夜はあいつの好物を用意してやろう。もう怒っていないと、伝える意味にもきっとなるだろう。

 新鮮な魚をもらってきて、庭先に出した七輪でそれを焼いた。いい匂いをさせながら、たびたび辺りを見回したが、魚が焼けても猫は戻ってこなかった。焼いた魚が冷めきって、匂いなどしなくなっても戻らなかった。やがては夜になったが、自分の夕餉も食べる気になれず、縁側にぼんやりと座っていた。

 たかが猫。こんなに落ち込むなんてどうかしてる。元々は野良なのだから、山で野鼠を獲るなり出来るだろうし、もしかしたら、今頃は別の家で飯に在り付き、優しくしてもらってなついているかもしれない。別に俺じゃなくても、きっと構わんのだ。

 だとしたら、随分薄情だな、と、身勝手に思って力無く笑って、尚更虚しくなってこうべを垂れた。あんなに可愛がったのに…。いつも大事にしたのに…。だから、ずっとここに居てくれると思ってたんだ。そうだよ、ギンコのことも、同じように思ってた。

 その時、ガサリ、と庭の隅の草が音を立てた。戻ってきたのかと喜んで、俺は音のした方へ近付き、膝をついて身を屈めた。呼ぼうとして、名前もつけていないことに気付き、目元から片眼鏡を外すと、手のひらにのせ、繁みの方へとその手を差し出す。

「そこにいるのか? ほら、ほらこれはやるから。お前にやるから。欲しいんだろう? なぁ、欲しかったんだろ?」

 にゃあ。

 と、か細い声がした。俺は嬉しくなって、縁側に置いたままだった焼き魚も持ってきた。草の上に皿ごと置いて、それを繁みの方へと押しやり、猫撫で声で話し掛ける。

「お前の為に焼いたんだぞ? 美味しそうだろう? 全部お前のだから、食べていいぞ、ほら。…だから、出てきてくれよ。お前まで居なくなるなよ…頼むから」

 にゃあ、と、また声がした。庭木の陰の暗がりから、真っ白な毛並みを闇に目立たせて、そこから出て来たのは、けれど、俺が待っていた猫じゃぁなかった。いいや、猫「だけ」じゃなかった、と言うべきだ。

 腕に白い猫を抱いて、その白猫と同じ色の髪をして、ずっと、俺が会いたかった男がそこに立っていたのだ。

 心臓が、止まるかと思った。
 それとも世界が、止まるかと。
 それぐらい驚いて、それぐらい嬉しくて。

「……ギ…ン」
「その魚、喰っていいのか?」
「え」
「腹減ってんだ。ここんとこ、ロクなもん喰ってねぇし」

 ギンコは返事も待たずにひょいと屈むと、片手で魚の尻尾を摘まみ、頭からばりばりと食べ始めた。彼の逆の腕に抱かれいる猫は、不平不満の滲んだ声でにゃあにゃあと騒ぎ、とうとうギンコの腕から逃げると、家の中に走り込んで行った。

 骨も尻尾も残さず食べつくして、行儀悪く指を舐めてから、ギンコは俺を押しのけて縁側へと歩み寄り、猫のための小さな座布団のうえにどっかりと腰を下ろす。

 ギンコ、今お前の食べたのは猫の為に焼いた魚で、お前が座っているのも猫の為の座布団だよ。などと、そんなことは勿論言えずに、俺はお前の姿をじっと見ている。幻だったらそろそろ消えるだろうかと、はらはらしながら見ているしかなかった。そんな俺のことを、ギンコはちらりと見て、何処か怒ったような声で言った。

「こんな座布団までわざわざ用意して、飼ってんのか、あの猫。随分大事にしてんだな、さっき美味い魚も、自分のじゃなくて猫の為かよ」

 言われずとも猫のものだと分かっていたらしい。ギンコはそれから、唐突に手を差し出して、何かを欲しがる仕草をした。「それ」を寄越せ、と身振りでしつこく催促するので、俺は手にしていたものをギンコの手のひらにのせてやる。

「これも、猫にやるのか。猫なんかに、お前の愛用の片眼鏡をやるのか」

 拗ねたような、その目が。
 翡翠の色をした、俺の大好きな目が。
 言葉にせずに言っている。
 その言葉が聞こえた気がした。

 猫にやるくらいだったら、俺にくれ。

「あぁ。あぁ…いいよ。お前が欲しいと言うならお前にやるが、新しいのを作るまで、ここに居て待っててくれるか?」

 専門の職人を呼んで、同じものを頼んで作らせ、出来たものが届くまで、ここにいて欲しい。ひと月掛かるかふた月か。お前が幻じゃないのなら、そのくらいの願いは叶えてくれよ。

「…そりゃ無理だ、悪ぃけど」
「どうして」
「もともと、一つ所に長居が出来ねぇからだよ。已むに已まれぬ俺の事情だから、そこは勘弁してくれ」

 でも旅に出ても、またここへ来るから、とギンコは言った。落胆している俺のことを、困ったように眺めたままで。

 だから、今度は俺の為に魚焼いてくれ。
 次まで俺の座布団も用意しててくれ。
 それからその片眼鏡は、
 新しいのが出来たら貰っていくぜ。
 俺にくれると、お前が言ったんだから。

 などと、戯れ言みたいに猫と張り合うギンコは、白猫が目の前にきて、にゃあにゃあ文句を言い続けても、座布団から退かない。頷いて約束する代わりに、俺は知りたかったことをギンコに聞いた。

「どうして、あの時、何も言わずに消えたんだ…?」
「しょうがねぇだろう。…誰かに惚れられるのなんか、俺は慣れてねぇんだよ」

 そうやって、また拗ねた目をする。視線も合わせず、あさっての方を向いたまま。俺の気持ちは見事に言い当てられたが、不思議と焦りも困りもしなかった。

 あぁ、そうだよ。ベタ惚れなんだ。
 だから少しでも、傍に居て欲しいんだ。

「…少しは慣れてくれよ。あの猫みたいにさ」
「出来るか! あんな」
「猫、嫌いか? ギンコ」

 そう聞くと、ギンコはいつの間にか俺の足元にまとわりついていた猫を、無造作な手つきで抱き上げた。目が少し怒ってる。

「別に…。お前がほどほどに可愛がる程度だったら、嫌いじゃねぇさ。悪かったな」

 猫なんかにヤキモチ焼いて。
 焦って出てきて。
 猫の座布団も魚もお前の片眼鏡も、
 全部かっさらって。

 悪かったな。








13/02/19





 猫は主人が大事にしているものに、ちょっかいを出して気を引くことがある、ので、こんな話が出て来ました。そしたらこの猫はギンコにもちょっかいを出すかもしれないね。そしてギンコはお前より俺に懐いてる、などと思っちゃうのかもw

 二人の出会い頃の事もほのめかした話になりましたよ。 惑い星でしたv