文 : JIN


『硝子の記憶』









その硝子は、すべてを見ていた。

――――――――などと書けば大げさかも知れない。というより、大げさだろう、完全に。
けれど一度それは意味を持ってしまった、だから、きっと起こったのだろう。



化野はいつものように庭に出て、手桶と柄杓を使って水遣りをしていた。日差しが強くなってきたこの季節、枯らしてしまってはかわいそうだとこまめに水遣りをしている。
ふと、名前を呼ばれた気がして化野は顔を上げた、垣根の向こうに見えたのは、白髪の青年。髪を乱し、息を切らして立っていた、全力で走ってきたかのように見えたが、それに疑問を持たずに化野は嬉しさのあまり声をかけた。
「久しぶりだな、いったいどうし……」
しかしあろうことか現れた男は、化野が言い終わるのも待たずにがしっと尻を片手でわし掴みにしてきた。そんなにも求められているのかと驚いたが、それよりも喜びが勝って嬉しそうに問いかける。
「な、なんだ、せっかちだな、ギンコ…」
「なぜ尻を触らせた」
その言葉に息を飲む――――――――そう、化野は昨夜やってきた骨董屋に尻をなでられたのだ。でもそれは思い切り抵抗したし、追い返しもした。別に同意して触らせたわけでは、ない。
「いや、でも二度と来るなって怒ったぞ」
「当たり前だ」
どかりと縁側に腰を下ろすと、彼は忌々しそうに舌打ちをした。珍しいこともあるものだ、と思う。ギンコが不機嫌を顔に出すのは滅多になかったからだ。どこで習ったのか何が起きてもいつものらりくらりとかわす、そういう男だった。
いや、それよりも。
「どうして知ってるんだ」
骨董屋が、里の集落から少し離れている化野の家に入るのを見たという者はいないと見る。ましてや昨夜遅くの時刻だ、誰かが見張ってもいない限り知ることは無理だろう。ならばなぜ、と思ったとき、ギンコがそれはと言い澱んでちらりと部屋の隅を見た。
すぐに見やると、部屋の隅に化野の片眼鏡が落ちていた、古い硝子で擦り切れた傷が無数にある。これは確か、と思いそれがずるずると動いたので、目を見開く。

「うわあぁぁぁぁぁあぁ!!」

あわてふためく男をギンコはふーとため息をつきながら見ている。あわわわわと情けない声を上げながら化野は指を指した。
「あれあれなんで動いて…」
「あー、そうだな、動いてるな」
硝子はひょいと立ち上がる(?)とその場で嬉しそうにくるくると回りだした。
「まわ、まわ、まわ……」
「あー、そうだな、回っているな」
芸が細かいな、と冷静につぶやく男を、半泣きで見る。しかしとたんに、そうかと納得した。
「蟲なのか」
「まぁな」
彼が冷静だということは、これの正体を知っているということ。相手が蟲だとわかると、彼がいるので安全だと思うようになった。安全だと思えればたいていのことはへっちゃらになる化野である、回るどころかぴょんぴょんと跳ね回っているそれに手を伸ばした。

「触るな!」
「え?」

答えるときには遅く、硝子を手に持ちひいやりとした感触が手に伝わってくる、ほんの少しの熱を奪って硝子は手のひらに。とたんにぐらりと視界がゆらいだ。ひん曲がったように見える景色。自分を中心に追い越していく様子は時間の中に自分だけが取り残されたようなそんな錯覚すらあって。
何が起きたのかわからなかったが見えてきた景色の中には覚えのあるものがあって、思わず息を吐く。
化野の顔があった、嬉しそうな顔。わずかだが男が映った、しかしすぐに景色は変わる。山、海、里、猫、笑う子どもたち、血相を変えて家に飛び込んでくる里の男。それを見たら化野にもわかった、自分が見てきた景色かと思ったがこれは――――――――違う。最初に通り過ぎて言った景色の中にいた男に見覚えがあったのだ。
ギンコも映った、彼がいるときは彼の姿ばかり追いかけていたのでわかる。すべて見てから、やがてもとの時間・もとの空間に戻る。顔を上げて声をかけた。

「これは、この片眼鏡が見てきたものだな」
「――――――――ああ」
眉をしかめてうなずく男は気まずそうにしている、最初に出てきた男は商人で化野に片眼鏡を売った男だ、その前に出てきた景色はすべてこの片眼鏡ができてからの映像だった。そして最後のほうには、しっかりと尻を撫でられた昨夜の化野が映っていたのだ、ギンコはこれを見たのだとみて間違いはないだろう。
「しかしこれはずっとここにあったのに、どうしてお前が尻を知っているんだ」
「その言い方はなんなんだ……」
あながち間違いはないか、お前の尻なら知っているしな、とため息まじりに笑ってから白髪の男はポケットを探った。こつーんと音がして何かが落ちたので見るとそこには人間の目玉があった。すぽーんと勢いよく化野が宙を飛ぶ。
「バカ、良く見ろ。それは義眼だ」
「ああ、ほんとだ、吃驚した」
人の目玉だけでこれだ、お前本当に医家か?と問われてもちろんだと即答した男にため息が漏れる。
「こっちにも蟲がついている」
「そのようだな……」
義眼はぴょーんとその場で飛び上がると、片眼鏡と一緒に畳の上を飛び跳ね出した。ときどき机などに当たっておろおろしている、目測を見誤るようだ。硝子と目玉が踊る姿は酷く滑稽に見えたが、それよりも今家に誰も来ていなくて良かったと化野は違うところで安心した、誰かが見たら卒倒しそうな光景だ。
話を聞けば、数日前からギンコの義眼に片眼鏡が見ているもの(と言っていいかはわからないが)が映り出したという。調べてみると正体は古い硝子につく蟲で、気に入った硝子の前を横切った景色を好むらしい。
「もとは硝子だからな」
「なるほど」
義眼も硝子でできているらしい。なぜ片眼鏡の映す光景を義眼が受け取ってギンコに見せていたかは謎だが、男はぽつりとつぶやく。
「まぁ、気まぐれだからな」
人も、蟲も。
そしてそんな気まぐれどもを相手にしている蟲師というのは、すごい仕事なのかも知れないと思えた。
「そういえば今までのこと全部見えてたな」
それはつまり、ふたりが抱き合っている姿なども当然映っていたわけで。ちらりと見ると男はにやりと意地の悪い笑い方をしてみせる。
「もう一度見れるとは思わなかったな」
やっぱりかと答えながら、化野は伸びてきた手を振り払うことはしなかった。



人が大事にしてきたモノは、自分に映るものも大事にするのかも知れない。
だから色褪せず記録として残っているのだろう。そしてそれは、モノがある限り蓄積されていくのに違いない。


「俺が尻を触られたので、あわてて戻ってきたってことか」
行為のあと嬉しくて聞いたことへの返事は、残念ながら「俺も触りたくなったから」だったが、化野はひっそりと笑う。答えは息を切らして立っていたあの姿にあったから。

なお、義眼は蟲が離れるまで、片眼鏡とともに化野の家で預かることになったらしい。











GINCAさんの「猫は獲物を返さない」の派生のようなそうでないような
・・・・どっち?(JIN談)


12/05/12