文 ; 飯島 律 様


『 土  産 』






コートのポケットに収まっていた冷たいものに手が触れた。つるりと丸い平たいそれに心当たりが無く、取り出して見れば見慣れた片眼鏡である。何をしているんだあの医家はと呆れると同時に可笑しくなった。あの男が持っているガラスと石英の二つのうち、こちらはどうやら石英だ。石英など高いだろうに、硝子では割れると思ったのだろうか。どちらを入れるか迷った末、割れにくいこちらを収めてくれたわけだ。怪我をさせるまいという気遣いかしっかり持って帰ってこいという無言の訴えか、急いて返しに戻る必要はないらしかった。悪戯心に路銀の足しに売ったと言えばどんな顔をするかと思いを巡らせ、くっくと笑いがこぼれた。
「どら、見えるかい先生。そこに大きな綿毛のようなのが居るだろう」
片眼鏡を目の高さまで持ち上げて、それに見せるように声をかけてみる。必要のないものではあるが、たまにはこういう品を道連れに旅をするというのも悪くないと思えた。代わりに置いてこられるものを考えて、すぐにないなと思う。
(蟲ピンでも新調するかねえ)
必死の形相で追いかけてくる様子が目に浮かんでもう一つ笑った。
懐に忍ばせ折に触れては手遊びした片眼鏡を見てギンコが顔を青くするのはそれから二月ばかりした頃である。
窯業の盛んな土地を抜けたときのことだ。近頃土の具合が変わったのか焼き上がりが以前と違うと噂話を耳にした。そのときは気にも留めなかったが、その夜思い出してよもやと懐の片眼鏡を探ってみれば、案の定蟲がついて石英を食んでいた。すぐに対処はしたものの中には空洞が気泡のようにいくつも残ってしまった。大事な預かりものがこの有様ではあの医家はいったいどんな顔をするだろうか。
(こんな骨董、代わりなんて俺にゃとても手が出ねえぞ)
そろそろ顔を見たいと思い始めた矢先のことだったが、どんな顔をさげて戻ればいいのかわからずずるずるとそれから数ヶ月を先送りにした。その間に珍しいものでも手に入ればという算段もしてみたが、こんな時ばかりこれというものに当たらない。これ以上間が空けばいよいよ顔が出しづらくなるだろうと腹をくくって訪ねたギンコを迎えたのはいつもと変わらず満面に喜色をたたえた化野であった。その顔をみて胸が痛んだのは言うまでもない。
座敷に通され茶を振る舞われ、飯の用意にと化野が立ちかけると、その前にとギンコは化野を呼び止めた。言い難いことは先に話してしまうに越したことはない。話があると言うと立ち上がりかけた化野は座布団に座り直してギンコを促した。
「おまえの片眼鏡のことだが、」
ギンコが口を開くと、さっと化野の顔が曇った。
「ああ、あれがどうかしたか」
心持ちこわばった声で化野が訊ねるのを感づいたらしいと解釈したギンコは話は早いとばかりすまないと言って頭を下げた。
「すまないというのは、おい、どういう意味だ」
ぎこちない声で説明を求める化野に、ギンコはこれも恐々と懐から布でくるんだ片眼鏡を取り出して化野に差し出した。唇さえ噛んで次の言葉を待つ化野から目を反らしてギンコはぼそりと言った。
「…みりゃわかる」
その言葉に、え、と言って顔をあげ、首を傾げた化野は一拍置いて弾かれたように包みに手を伸ばした。くるんだ布を性急に暴きまじまじとそれを見つめる。表情は驚きと物珍しさに塗り替えられた。
「なんだこれ、どうした」
「その、ちょっとへまをして…」
蟲に食われたんだとギンコが言いづらそうに口を割ると、化野はその目を輝かせた。
「詳しく話せ」
急かされるままギンコが眼鏡を食われた経緯を話すと化野はおもしろそうに頷きながらそれを聞いた。
「なるほど、土の一部を食うわけか」
「と言うよりは化石化した珪藻の死骸、珪藻土のほとんどを占める成分だが、それを食う。窯業地にはよくわく蟲だからな、そこに入る前に思い至らなかった俺の手落ちだ。悪かった」
「ああ、それで水晶を食うのか。似ていると言うからな」
それは珪藻の化石を取り込み分解するだけの蟲で、取り立てて害はないが、土に含まれる珪の量で陶器の焼成の良否が左右される窯業地ではしばしば問題にされた。蟲にすれば餌の宝庫であるから、わかないはずもないが、大抵は蟲の量を調整するだけで事は足りる。大した悪さはしないのだ。しかし食われたものが石英の結晶、まして眼鏡であれば話は変わる。こうも気泡が入ってしまえば二度と眼鏡としての用には立つまい。珪藻の化石と石英を勘違いして蟲がついたという例も何度か耳にしていた上でのこの始末であった。いくら責められても返す言葉がない、そう思い詰めてギンコは化野を訪ねたのである。と言うのに、片眼鏡を手に眺めながら話を聞く化野はむしろ楽しげな顔を浮かべている。
「いや、嬉しいぞギンコ」
「え?」
「まるで俺の一部がお前と共に旅をしてきた名残のようじゃないか」
「だって、さっきは…」
自分の言葉におもしろそうに二三度頷いて機嫌のよい顔を見せる化野にギンコは戸惑いを覚えた。話を切りだしたときのあの顔は何だったのだろう。他に何か気分を害すような事をしでかしたろうか。困惑の消えないギンコを見、化野が目をぱちくりとさせてどうかしたかと問いかける。
「いや…」
その嬉しげな様子に一つ思い出したことがあった。一年は前になるが、確かこの医家はギンコに向かってお前と旅ができたらさぞ楽しかろうと言ったことがあった。つまりそういうことだったのだろう。どんな返事をしたのかはもう思い出せない。忍ばせた片眼鏡をとがめるとでも思ったのだろうか。
「俺も楽しかったよ」
親しいものと道連れの旅をした気分になれた。
しばらくすると機嫌よく眼鏡を覗いていた化野がううんと悩むそぶりを見せてからギンコと名前を呼んだ。
「なあこれ、勝手にお前の懐に入れておいて言うことでもないんだろうが、俺の手元に返して貰っていいだろうか。近くにおいて眺めたい」
「いいぜ、元々お前のだしな」
頷けばまた満面の喜色である。喜ぶときは本当に嬉しそうに喜ぶ。楽しませ甲斐のある男であると思う。つられてこちらまで笑顔になる。
「そうだ、」
ふと思いついて、木箱から古い蟲ピンを取り出した。
「これも一緒に持っててくれんか」
ポケットに忍ばされた片眼鏡に気づいたあの日考えた蟲ピンだった。新調したからと言うと、それでいくらとるつもりだと化野は眉間に皺を寄せてみせた。
「そういうつもりじゃない、ただその眼鏡の横に置いて貰いたかったのさ。旅の記念だ」
ギンコがそう言うと怪訝そうにいくつか目を瞬かせて、わかったと化野はそれを受け取り、気泡入りの片眼鏡の横に並べて置いた。
それを見て、話はすんだとギンコが足を崩すと、よし飯にするかと言って今度こそ化野は立ち上がった。









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反省することしきりです。本当にごめんなさい。
タイトルは駄洒落です。土を食う虫に食われて生まれた土産の品、なんちゃって。センスのなさは持ち味です。(飯島様、談)


とっても素敵な作品ですよ!?企画に頂けて、嬉しい限りですよーっ。反省?なにそれ、新種の蟲? 飯島様、本当にありがとうございました。(惑)






12/09/29