文 : GINCA




『猫は獲物を返さない』


 背負いの木箱のトランクの肩紐に両手を通すと、ギンコは、化野家の縁側から、よっ、と立ち上がった。
「じゃあな」
「ああ。気をつけてな」
 向けた背に、そう言う、あっさりした口調とは裏腹に、化野がジッとギンコを見つめているのが、気配で分かる。
行かないでくれ、と・・・
傍に居てくれ、と・・・
声には出さなくても、はっきりと顔に書いてあるような目をして、今も見つめているのが。
ギンコは、あさっての方を見て、それに気付かぬふりをする。
ずるいぞ、化野、そんなカオして。それで、『俺だってここに居たい!』ってやっちまったら、俺ら、どうにもならなくなんだろ!
 未練がましい自分を振り切るように、ギンコは、いつもの歩調で歩み去る。彼の身長に見合った、歩幅の広い足取りで。
 来た時、見かけなかった蟲の姿は、ないようだった。
 ギンコが来るようになる前から、この小さな漁師町に棲んでいる、人里近くでのみ生息出来るような蟲の幾らかが、ギンコを追ってくるのが見えた。まるで、ギンコが風で、その風の動きに吹き寄せられて来るかのように、向かう山の方へとそよぎ流れて来る。
このまま、ついて来させたら、コレらの大半が、行く手の森の中で死に絶えるだろう。
なのに、何だって、こう、ついて来たがるのか―――
『寄って来るな!』と怒ったことはあっても、『ついて来いよ』と呼んだ覚えは、ついぞ、ない。
けれど、ギンコの意思とは関係なしに、蟲たちには、ギンコの中の何かが呼んでいるのが聞こえる訳だ。毎度のことながら、まったく、コイツらの気が知れねえ、と思う。
が、死ぬと分かっていて連れてゆく、ってのも趣味じゃねえ。
 化野家の裏手の里山へと続く裾野の小道の中途で、ギンコは、いつものように、蟲煙草を探して、上着のポケットに手を入れた。
「あ?」
 左のポケットに手を入れると、化野の片眼鏡が入っていた。
 としか思えない、平たくて、滑らかで、丸い小さなものが。
 急ぎ、取り出してみたが、やっぱり、そうだった。
(いや、だって―――あいつは、片眼鏡をかけてたよ、な?)
 出る時―――
 急ぎ記憶を辿って思い出そうとするが、考えると―――考える程に、何の違和感も感じなかった筈の記憶も怪しくなってきた。
 いつも、ろくに顔を見ないで出立してくるので―――
 行かないでくれ、と・・・傍に居てくれ、と・・・言葉にせぬでもはっきりと書いてあるみたいな顔をしてジッと見つめる化野の顔を見ていると、出立できなくなりそうで―――
(違ったっけ、か?)
 何にしろ、片眼鏡はここにある。
なしでは不自由する筈だった。
戻る―――しかないだろう?
 ギンコは、ぼりぼりとうなじを掻いた。
「しょうがねぇなぁ」
 いったい、何だってこんなことを―――って、ギンコを戻って来させる為か?
(あいつ・・・!)
 居続ければ、居るだけ蟲が寄る。
次来るのが、きっかり三十日明けて来るんじゃ済まなくなる。
お前は、それでもいいのかよ?
(人の気も知らないで・・・!)
待つのも、そりゃあ辛いだろうが、待たせる方だって辛いんだ。
ただ、足を向ければ会いに行けるのに、我慢して、あえて背を向けて、離れてくのだって辛いんだぞ?
(でも、お前は待っててくれると思うから・・・ )
そう思ったら、少し、気持ちが落ち着いた。
「まずは、こいつを返さねえと・・・ 」
 手にした片眼鏡を、落とさないように、壊さないように軽く、手の中に握る。その拳ごと上着のポケットにしまうと、ギンコは、もと来た小道を登っていったのだった。

*      *      *

 が。
 戻ってみると、やっぱり、化野はちゃんと片眼鏡をしていた。
「これ、お前の――― 」
 手に持つそれと見比べるギンコに、化野は、
「あぁ・・・もう傷だらけなんでな、新しくしたんだ」
(いたずらかよ、ただの)
ギンコがこれを置きに戻らなくても、ちっとも、化野は困らなかったわけだ。
 ギンコは、どっと疲れた気がした。
 やるせない別れの道行きは、気力も体力も倍要る気がしているのに、そいつを、また俺にやらせようっていう訳だ。
 また、会えて―――自分だって、何だかんだ言って嬉しかった筈なのに、何だか、腹が立ってきた。
「だからって何で」
 思わず、そう言いかけて、ギンコは途中で言いやめた。
 今、目の前にいるギンコを、嬉しそうに、化野は見つめている。それが、答えだった。
化野も、ギンコが言いかけたそれには答えずに―――ギンコが手にしている片眼鏡を受け取ろうとして、か―――こちらへと手を差し出しながら、
「よく気付いたな」
「丁度、ここへ手ぇ入れたからだ。そうでなきゃ気付かねぇで持ってったさ」
それも知ってる。
といったカオをして、化野は微笑んだ。
(黙って、持って行っちまえばよかったぜ!)
 有無も言わさず、ポケットにつめこんで、連れて行ってしまえばいいのだ、こいつも!
腹を立ててそう考えたが、もちろん、化野が、ギンコのポケットの中になぞ収まる訳がない。
 ギンコは、手の中の、化野の古片眼鏡を寂しく見つめた。
 でも、これなら―――
ポツリと化野が言った。
「なんだ。それでもよかったのに」
そう、呟いた声音に、ハッとした。
(俺のポケットに入ってついて来たかったのは、お前か?)
 この片眼鏡じゃなしに。
 いや、この古片眼鏡が、お前の代わりか。ずっと、お前の一部だったこいつが。
そうか。
(お前も、俺と同じに――― )
化野も、同じに寂しいのだ。
そう実感したら、ギンコの寂しさが少しやわらいだ気がした。
いや、そうじゃない。
寂しいのは寂しいけれど、その辛さが少しやわらいだ気がした。
ギンコは、ふっと口の端を上げた。
自分でも、ちょっと驚いた。今さっきまで、ずいぶん腹を立てていたのに。
やわらかな声音で、ギンコは、言った。
「いたずらか」
「あぁ、そんなようなもんだよ・・・。他愛が無いだろう?」
 そう、戯言を言うように微笑む瞳が、声には出さない想いを込めて、ジッとギンコを見つめている。
行かないでくれ、と・・・
傍に居てくれ、と・・・。
 ギンコは、大股で一歩踏み出すと、いきなり、化野のすぐ傍まで近づいた。
驚いたように見つめる化野に、さらに、顔も近寄せて、唇も寄せてゆく。
目元に近寄せてゆくギンコの唇の気配を感じて、化野も、次第に目を伏せ、目を閉じる。
 その右目の上の辺りに、そっと片眼鏡に手を添えながら、ギンコは口づけた。
そして、添えた手と唇で片眼鏡をくわえて奪い取る。
(あ?)
 ぱちりと目を見開いた化野の前から、ギンコは、大股で一歩退いた。
呆として見つめる化野に、くわえた片眼鏡を落とさぬようにニッと笑って見せると、ギンコは、くるりと背を向けて歩き出した。
 数瞬遅れて、化野は、我にかえったように、
「 ・・・お、おい!」
 惑乱した声が、背中を追いかけて来たが、ギンコは歩みを止めなかった。
次いで、未だ躊躇うように草履の底をするような足音がして、くわえた片眼鏡の本体も追って来る。
 こいつは、本当に困るんだろう?
少し小走りで追って来た化野の歩調に合わせて、ギンコは、少し速度を速めた。
「なぁ・・・おい、ギンコぉ――― 」
 まごついたように弱々しい声で呼びかけながら、化野がギンコを追って来る。
 でも。
 呼ばれても、今は待たねぇ。
 くわえた片眼鏡を落とさぬように、口元に大事に両手を添えて―――傷つけぬように、やわらかく唇だけで噛んで、ギンコはどんどん歩いて行った。
 歩調を速めたギンコに離されまいと、急ぎ、自分も早足になって少し乱れた歩調で、化野があとを追ってくる。
 そうだ。
追いかけて来いよ、化野。
ちょっとくらい、俺と一緒に出かけようぜ、なあ?
 追いつかれまい、けれど、引き離すまい、と後ろを気にしているうちに、いつしか、足音も、二人揃っていく。
いや、化野の方も、無理に追いつこうとはしていないのかもしれなかった。
浜へと下る道との分かれ道で、急な登り道に転じてからも、化野の息は乱れていない。心もち早い歩調のギンコを追って、化野も、てくてく歩いてくる。互いに、加減はわかってるだろう、という訳だ。
 山道の入り口で、ギンコは立ち止まった。
 楽しい小旅行は、これで終いだ。
ギンコが立ち止まると、化野はすぐに追いついた。
 並んだ肩へと振り返ると、ギンコは、くわえて来た片眼鏡を、そっと手のひらに降ろして、化野に返した。
「涎、つけちまったか」
 化野は、笑って、受け取った。
懐から取り出した手ぬぐいで、濡らされた片眼鏡を―――名残り惜しげに、けれど、きっちりと、化野はきれいに拭きとった。
よかった―――歯は立てずに、唇だけでくわえるようには気をつけていたが、大丈夫、疵付けてはいないようだ。
それを、右目に装着して、いつもの化野の顔になる。
 化野は、ぐるりと辺りを見回して、
「はは、よく見える。けっこう見晴らしがいいんだよな、ここは」
 言って、見下ろすギンコの目線の先を辿って、化野もそこを見た。
 この山道の入り口―――いや、出口からだ。
山道を出てすぐ見える化野の家。一見、ほんの一跨ぎで行き着けそうに見える距離に―――
 次いで、ギンコと目が合った。
「じゃあな」
 と言って、ギンコは背を向けた。
その肩に、肩を並べて、化野が、そのままついて来た。
「あ?」
 驚いて、傍らを振り返ると、化野は、ちょっと首を竦めて、
「いや・・・うん、ついでに、何か―――傷薬に使える生葉を少し採取して行こうか、と思ってな」
 いかにも、今考えました、といった口調で、化野は言った。
「・・・・・・ほう」
「そうだ。お前も少し持って行ったらどうだ。」
「そりゃ、ありがてぇ」
 今少し、ギンコの傍らに化野がいる。
 にっと口の端を上げて、二人、顔を見合わせた。
そして、二人、肩を並べて、山道に入ると、さらに脇道へと入って行ったのだった。














こんにちは、GINCAです。
『おもいびと』第一話のGINCAヴァージョン
小説版「行くな、と顔に書いてある化野先生」です。
「はやる気持ち」の可愛いわんこ化野につられまして、
私も、猫っぽいギンコを書いてみました。

「ほーれ、とって来−い」とものを放って遊ぶと、
犬は、くわえて持って来ますが、
猫は、くわえて持って行きます。
って感じで。



12/03/03