文  GINCA
絵  コオリノ





 お も い び と   3 








 髪を撫でている。
 疲れて、臥所(ふしど)に沈み込むようにして横たわり、眠る化野の髪を、ギンコが。
 また、夢を見ているのだと思った。
 化野の眠りを妨げまいとするように、そっと、愛しむように優しく、何度も、何度も、髪を撫でているこの手は、ギンコの手だと思う。
 夢の中のギンコは、いつも優しい。夢の中のギンコは―――
 けれど、ならば、何故、この優しい手を、ギンコだと自分は思うのだろう? 現のギンコが化野にすることといったら、まだ日も暮れ切らぬというのに、ほんの物陰に過ぎない奥の間で、ぐいと着物の前を開いて―――
着物の中から、裸の背だけ抱き上げられて半裸にされて―――
 噛み付くように荒々しく奪われる口付け。
けれど、しゃにむに舌で割られるより先に唇を開くのは、いつも、化野の方だ。たちまち、舌の根まで絡め取られて、息もつけぬほどに吸われて―――何もかもが、霧につつまれたように、化野の中から忘れ去られて消えてゆく。ただ、口づけだけで、ギンコは、なしくずしに、化野を深い愉悦の底へと溺れさせてゆくのだ。
(ああ、そうか)
 ふと、それに気づいて、化野は微笑した。
 髪を撫でていた。いつも―――
 そうだ。思い返せば、いつも、激しい口づけの最中(さなか)に―――きつく掻き抱き、せわしなく肌を撫でさすりながら、ギンコは、こんなふうに、時折、化野の髪を撫でていた。
 口づけるために強く掴み寄せた後頭部を、舌を絡めあわせながら撫でつけ―――愉悦の熱に濡れて纏い付く、乱れた目の端の髪を撫で上げ―――
















夢の中でだけ優しいギンコ。
 そう、何となく、思っていたけれど、夢の中でも、外でも、ずっと、こんなふうに、ギンコの手は優しかったのだ。
 そう、気づいて―――化野は、それまでカラカラに渇いているようだった心が―――荒れた唇が、蜜の被膜に癒されるように―――しっとりと、潤い、満たされていくのを感じた。
 それでも、目を開けば、その手は離れていってしまうような気がして、化野は、懸命に狸寝入りをしていた。
 ギンコは、髪を撫でつづけている。
 が、その手がふっと止まって、温もりは離れていってしまった。
化野の傍らから、ギンコが、そっと身を起こす気配がして、思わず目を開く。
 藍の浴衣を羽織ったギンコの背中と腰が見えた。ほの暗い月の光は、わずかしか、こんな奥の間までは届かず、けれど、月光に縁取られた藍の闇の形が、そこに、確かにギンコがいることを示してくれていた。
白い頭の向こう側から、立ち上る蟲煙草の煙。
その、光に縁取られた影のようなギンコの背中の向こう―――おそらく、文机の下の奥辺りに、何か、そこに有る筈のない光が灯っていた。
円形の、不思議な光の線画。
その円が、線画の内側も、光で、しだいに塗り込められてゆく。
ギンコは、片手と両膝だけで、殆ど音をたてずに、器用に畳の上へと移動すると、文机の下へと手を伸ばした。
 その先の薄暗がりで、光に塗りこめられたその小さな丸い何かは、ぼぅっと不自然な光を揺らめかせて続けている。
蟲、だろうか?
この家の中で、あんな奇妙な光り物は、今まで見たことがなかった。
まさか―――そんな―――ほんの2泊しかしていないのに、もう、常にはいない蟲が、ここに寄って来てしまったというのか?
 が、ギンコは、驚いたふうもなく、すっとその丸い物を拾い上げると、
「だめだ」
と言って、それに、ふうーっと蟲煙草の煙を吹きかけた。不思議な、淡い光の筋が、散り散りに四方へ逃げ散ってゆく。
奇妙な光り物は、化野にも見慣れた物になった。
片眼鏡だ。
 化野が、ギンコの上着のポケットに忍ばせた、長く使い込まれて、今や化野の分身―――いや、化野の一部と化していたようだった、古い方の片眼鏡。
「こいつは、化野の古道具だ。お前らに取られるくらいなら、俺が――― 」
















 化野が目覚めている、と知れていたなら、こんな独り言も、決して聞けはしなかっただろう。
 化野は、嬉しさでいっぱいになった。
(お前は、どうしたい、って?)
 くるりと、ギンコが振り向いた。
 逆光な上に、暗くて、ギンコの表情はつかめない―――いや、見えても、化野には読み切れないような表情をしているのだろう、と思った。
 ギンコは、何も言わず、じっと化野を見つめているようだった。
 今、ギンコに見つめられている化野自身は、いったい、どんな表情をギンコに向けているのだろう?
 じきに、ギンコが呟いた。
「目、覚めたのか」
「ああ」
 と、化野はうなずいた。
 ギンコは、よっ、と勢いをつけて身を起こすと、また、化野の傍らに戻ってきて腰を下ろした。
 もう光を帯びてはいない、ただの古い片眼鏡が、ざっとまとめ置かれた白っぽい衣服の傍らに置かれる。後で、どのポケットかに入れて行く為に、そこに準備しておくみたいに。
それも、嬉しくて―――
狸寝入りしていて、聞いてしまったギンコの独り言が、どんなに、嬉しかったか―――化野に心強さをくれたか、知ってほしくて―――
(ああ)
言葉だけではなかった。
考えて―――化野は、ギンコに言った。
「凄く、よかった」
「あ?」
 ぴく、とギンコの動きが止まって、次いで、あさっての方向を見上げた。
(お? 照れた、のか?)
 思わず、化野は、にっこりと笑みを浮かべた。逆光のギンコも、ふっと息を吐いて、
「・・・お前、ああいうのが好みだったのか」
 ばか。
 と、化野は思った。
そんなの―――なにしにでも戻ってきてくれたんだから、嬉しいに決まってるだろう。
(あっ!)
いや、そうじゃなくて、あんな―――ほんの物陰でやるのが『いい』のか―――ってのを言っているのか?
(お前・・・!)
 そんな―――ふうに思われたら、恥ずかしい、とか言うより、むしろマズイと言うかコワイと言うか―――
何だか、赤くなったらいいのか、青くなればいいのか分からなくなりながら、化野は、
「お前の言う『ああいうの』が、どういうのかは分からんが、うん」
と、にっこり笑いかけて、化野は言った。
「凄く、よかった」
 もう一度、化野は言った。
「だから、早く、また来てくれ」
「あ?」
 ギンコは、笑い出して、
「出る前から、次の算段かよ」
「いいじゃないか。狸の皮算用は楽しいぞ」
「狸か、俺は」
「いや、狐だな」
「何で?」
「何となく」
「何となく?」
「狐は、たらしこむのが上手いんだ」
「たらしこむ、って――― 」
 ちょっと言葉を切って、光に縁取られた人影は、まっすぐにこちらを見たふうな形になった。
「たぶらかす、だろ、狐は」
ふいに、ギンコの声色は、耳元で囁く時のような低い声音に変わって、
「へえ・・・俺に化かされてんのか、お前は」
「化かしているのか、俺を?」
 と問うと、逆に、
「化かされてる、と思うか?」
 と問い返された。
 起き上がって、化野は、ギンコに抱きついた。
「思わんよ。だから、早く、また来てくれ」
「・・・・・」
 ギンコは、何も言わなかった。ただ、ギンコも、化野の背に腕をまわして抱き締める。
 二人、何も言わずに、ただ、抱き締めあっていた。
 やがて、ぽつりと、ギンコが言った。
「お前は、狸だな」
「あ?」
化野の方は、ギンコをたぶらかしている、とでも言うのか?
 こいつは、心外だ、と思って化野は、
「化かしてなどないぞ、俺も」
 と言ったら、ギンコは、
「いいや、化かしてる。化かされんのもいい、と思えてきた」
 ギンコは、笑っているようだった。
ならば・・・
化野も、にこっと笑って、
「じゃあ、俺が化かしてやるから、出立するのは、朝にしろよ、ギンコ。いくら、お前がは夜目がきくと言ったって、やっぱり、夜道は危うい。獣たちは、夜から明け方にかけて、餌を探すのだからな。
 朝になったら、引き止めないから―――だから、早く、また来てくれ」
「ああ。出来るだけ、早く、来る」
 軽く、口づけして、また強く抱き締め合う。
 夜風が、すうっと渡ってきて、薄い浴衣ごしに二人の背を撫でさすっていった。
「お、寒」
 ギンコが呟いて、化野の背を胸に抱え込んだ。
「布団に戻ろうぜ」
「そうだな」
 二人、同じ布団の中にもぐると、浴衣の片袖を抜いて、肌を寄り添わせた。
そうして、朝まで、ずっと身を寄せ合っていたのだった。

*          *          *

 小さな漁師町の町医家である、化野の朝は早い。
 夜明けとともにやって来る―――それでも、漁師たちにすれば、少なくとも夜が明けるまでは待って―――荒仕事の前に、不調を診て貰いに来るのを、彼らの安全のために、化野も、いつも良しとしていた。
 名残惜しげに、また軽く口づけて、二人、床を離れる。化野は、いつもの藍の着物姿に、ギンコは、見慣れた白の木綿の貫頭衣に身を包んで、「いつも」の日々の始まりだ。


「じゃあ、早く、また来てくれな」
 引きとめるような言葉は言わない―――いつもと同じ出立の時。
 とても、寂しいけれど、笑顔でそう言ったら、ギンコは、まぶしそうな、困ったような顔をして、
「・・・あー、まあ、努力する」
「おいおい。いつもは、そう努力していないのか?」
「いや、してるんだがな・・・」
「おう。ならば、期待しているぞ」
あー、いや、期待されても云々・・・とギンコは、困ったように口を濁していたが、ふと、顔を上げると、じっと化野の顔を見た。
「ん? どうした」
何か言いたげに顔を寄せてくるから、こちらも顔を近寄せたら、
ちゅ。
と軽く口づけられた。
「お、お――― 」
 お前!
 かああぁっと顔が熱くなる。
 ギンコも、頬を染めて、照れくさそうにニッと笑うと、後ずさるようにして歩き出し、しだいに背を向けた。
 その背に、同じ言葉を、また、化野は投げかけた。
「早く、また来いよ」
背を向けたまま、歩きながら、ギンコは片手を上げて、その手をひらひらと化野に振って見せた。