文  惑い星
絵  コオリノ





 お も い び と   1 








「それじゃぁ」

 日の暮れ出した縁側で、いつものようにギンコは言った。振り向きもせず別れを言う背中を、どんなに彼が憎く思っているのか、この男は知らないのだろう。

「気をつけてな」

 化野はいつものようにそう言って、いつものように唇を噛む。ここで黙る彼がどんな顔をしているか、一度でも振り向いてみる気はないのだろうか。明るく笑っているとでも思うか? 平気だと思うのか? 次はいつなのかさえ、何も聞かせて貰えない別れの夕。















 落ちる夕日は赤く燃えて、あっという間に山の向こうに隠れる。薄くその色に染まっていた白い髪が、灰色に見えながら遠ざかり、そのまま小さくなって…。

 だが、ギンコは急に立ち止まって振り向いた。上着のポケットに突っ込んだ手が、何かを握って取り出され、それへ視線を落として、彼は酷く怪訝な顔。速足で化野の傍に戻ってきながら、不思議そうにしているその表情が、さらに不可解そうにしかめられる。

「これ、お前の」
「あぁ…もう傷だらけなんでな、新しくしたんだ」
「だからって何で」

 俺のポケットに、お前の片眼鏡が入ってるんだ、って? それは化野が入れたのに決まっている。誤って入るものでもないだろう。真新しい片眼鏡をした顔で笑って、化野はそれを受け取ろうと手を差し出した。

「よく気付いたな」
「丁度、ここへ手ぇ入れたからだ。そうでなきゃ気付かねぇで持ってったさ」
「なんだ、それでもよかったのに」

 坂を下りる途中でいつも、ポケットに手を入れるギンコの癖を、化野は見飽きるほどによく知ってる。仕草の理由は知らないが、それでも、ギンコがここで別れを言って、坂を下って姿が見えなくなるまでの間、ずっと見ている化野だから。

「いたずらか」
「あぁ、そんなようなもんだよ…。他愛が無いだろう?」

 ギンコの目が、化野の顔を真っ直ぐに見ていた。いつもと同じ顔のように見えるけれど、いつもは彼が見ない、別れ際の顔だ。視線は刺さるように、それでも静かに、ギンコの姿を見ていた。その顔を、髪を、唇を、指を、そして翡翠の色した、一つきりの瞳を。

「なんか言いたいことがあるんなら言えよ」

 溜息混じりでギンコが言う。

「言ったらどうかなるのか?」

 例えば、
 行かないでくれ、と。
 傍に居てくれ、と。

「どうもならんことでも、言うだけ言えよ。言えば少しは、気が楽になるかもしれないだろ?」
「そうは思えんよ、残念だけどな」

 苦く笑って、化野は差し出した手を一度引っ込めた。ギンコは自分の手の中にある小さな丸い硝子の板を、親指の腹で撫でて、うっすらと分かる細かな傷に気付いた。なるほど、随分と古いものなのだろう、傷が多い。化野へとそれを差し出して、受け取らせながらギンコは呟く。

「もう一晩泊まっていけ、とか。夜までいちゃどうだ、とか。どうせそんなんだろう? 顔に書いてあるようなもんだ。だから俺は、いつも振り向かねぇのさ」

 ほだされちまいそうだからな、と、囁いた声は聞き違いだろうか。ギンコはもどかしげに靴を脱いで、縁側から家の中へと上がり込む。背中の木箱を片腕で器用に下ろすと、それを畳みの上へ、半ば放るように置いて、奥へと入っていく。

「まだ夕なのに、だとか。人が来るから、とか。もう聞かねぇぞ、化野。引き止めたお前が悪い」

 そう言われ、さすがに化野は瞬いた。それでも体が動いてしまう。あともう一晩、引き止めることが出来るなら、夕だろうと、なんだろうと。

 あぁ、いつからこんなに焦がれたろう。別れるときは胸が寒くて、その後の一人寝の、寒いことと言ったら無いのだ。身を縮こまらせて奥歯を食い縛って、何とか眠りを呼び寄せて、眠れたと思っても、今度は夢にお前がいる。

 夢のお前は優しくて
 それが、一層苦しくて

「惚れろ、なんざ、言ってねぇのに。馬鹿だよな」

 目を閉じて顔をしかめている化野へ、ギンコはそう言った。住む世界の違う人間に、そんな身も世もなくのめり込んで、辛いに決まっているだろう、と、その言葉は化野へ。そしてきっと、自分へも。

 奥の間で着物の前を開かれた。緩んだ袖で、化野の指は隠れて、彼はそのままにギンコの頭を抱いた。















口付けの音が胸で何度も。そのたびに喉を反らし、足をもがかせ、あられもない姿にされていく。汗ばむ肌を辿る、ギンコの指と唇の、少しばかり荒れた感触が、どうしようもなく化野を溺れさせる。

 一度、袂へしまい込まれた片眼鏡が、ころりと転がって畳の上へ落ちた。薄暗い部屋の中で、それを瞳に映しながら、ギンコは化野を抱いた。
 丸い硝子の表面に無数に刻まれた、細かい傷のひとつひとつに、きっと化野の日々の暮らしが染み込んでいる。ギンコの知らぬ化野の姿が、嫌というほど染みているのだ。
 手を伸ばして、ギンコは指先でそれを弾いた。どこか部屋の隅の方へ、それは転がっていって見えなくなってしまった。







第二話
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